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どうなる?城内病院
日時: 2008/11/21 17:33
名前: どんぱっち

議員さんのブログに気になることが書いてあった

井口市長が議会の再選挨拶で城内病院を診療所化する検討を進めると表明したそうです。

前病院長が出馬する際に退職し現在は大和病院からの応援をしてもらっているので病院として継続困難だということが理由だそうです。

診療所化は悪いことばかりじゃ無いようですが主に高齢者の患者さんがが多い城内病院 診療所化のしわ寄せは高齢者に及びます

天下を取った市長が天罰を下しているようにも見えるのは私だけでしょうか。
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Re: どうなる?城内病院 ( No.51 )
日時: 2009/03/20 16:02
名前: こやましんじ

弥次ねこさんへ

今日はお彼岸で久しぶりの休日です。早速、この欄をチェックしました。弥次ねこさんの投稿を見て、ちょっと反論したくなりました。

「小山先生のおっしゃる、市長権限でゆきぐに大和病院から医師を移動させるというのは、どうなのでしょうか?」

私はあくまで最後の手段として、どうしても、医師が捜せない間、一時的に、といったつもりでしたが、一般論として反論されると心外で、残念です。しかも、南魚沼市長を含めて(都知事がやるかはなんともいえませんが)行政がお願した上での話で、そして、協力が得られる場合に限られる話であります。そうした努力は、医療福祉をやる自治体(参謀がいる)ではどこでもやるだろうし、必要だと思います。本人の意思を確認した上での話である事は言うまでもありません。何か、辞令一枚で済むようにとられたとしたら、言葉が足りませんでした。

「同診療所は、市国保市民病院として運営されていたが、医師不足から二〇〇七年に無床の診療所に縮小した。さらに、市は、高齢化が進む地域の要望に応じた医療を提供するには民間に任せるしかないと判断し、廃止の方針を決め、後継の医療機関を募っていた」

こうした事はよく分かります。病院のおかれた地域の医療事情、病院の現状、それぞれの地域の現状や、住民への説明など、検討してみる必要がありそうです。城内病院の場合は、診療所化する段階ではないのではないかと思い、もう少し、医師を捜してくる努力をしても良いと思いました。聞くところによると、幸い、見つかったことのようですが。

「民間経営なら儲かるのでしょうか? 儲かるとすれば、その理由は何でしょうか? 」

極端な、やや誤解されやすい発言のように思います。民間経営ならすぐに良くなる、だから、民営化だ?とは、一般的にはいかないように思います。そしたら、全ての病院が民間病院になってしまうでしょう。なぜ、今の病院のまま、もう少し、精一杯できることをしないのでしょうか。
因みに、イギリスでは病院病床のほとんどすべて公立病院ですし、ヨーロッパで最も低いと言われるフランスでも60%以上を公立病院が占めています。アメリカでさえ25%は公立病院です。日本はなんと20%です。それぞれのお国事情があるとはいえ、もう少し、公立病院の病床維持に、努力しても良いのではないでしょうか?
Re: どうなる?城内病院 ( No.52 )
日時: 2009/03/20 18:52
名前: 弥次ねこ

小山先生、さっそくのご反論ありがとうございます。
やっぱり反論がないと、書きこみ甲斐がないですから。
さらなる反論というわけではありませんが、言い訳がましく、追加すると・・・

先生の記述、アンタッチャブルさんへの反論を読み返してみましたが、市長権限による大和病院からの医師の移動によって医師分配の公平性を保つという趣旨としか読めなかったですね。
どんぱっちさんも、
>市長の権限で市立病院間の調整で解決できるだろうということですね
と解釈されてましたし、ある程度は力技で・・・という意味にとられたのではないかなと。
まあ、辞令一枚でなんとでもなるというお考えでないほうが、私としてもうれしいので、これはこれで終わりましょう。

民営化うんぬんは、民営化賛成の立場からではなく、この掲示板に立ち寄った人に、考えてもらいたいために、皮肉っぽく書きこみました。(小山先生へのクエスチョンということではなく、たたき台として)
医療における収益は、いかに医療費という決まったパイから、各医療機関が、要領良くぶんどるかにかかっているのだと思います。それと、経営者を含めた職員間の分配の問題でしょう。
仮に、病院経営が民間では成り立つが公営では成り立たないというのなら、それについて、お金の入り口と出口を、通りすがりの方も含めて皆さんも一度考えましょう、ということです。(確かに乱暴な誤解を招く言い方です)お金の出口といえば、一般的に公立病院の人件費(役職と関係なく上がる定期昇給そして理解しがたい諸手当などの問題)はさておき、別の大きな出口である機器購入ひとつとっても、民間病院は、極端な値引きを要求したり、中古でよいものは、中古で済ますなど、コスト削減の努力をしているわけです。
小山先生もCTをリース契約で導入されたということですが、ひと月に何件撮影すればリース代が払えるとか、とても払えないが、それを他の収益でこれだけ埋め合わせることができるとか、いろいろと計算されたのではないでしょうか。
そういった計算をされずに運営していたのが、赤字を膨らませている公営病院なのではないでしょうか(あくまで一例です)。
だいいち、日本くらい、CTなど高額な医療機器が広く行き渡っている国はないのでは? 高額機器のランニングコストをかせぐため、必要性のない検査をしているところもあるでしょう。(必要がないというのは、医師が余計な検査をすすめるというだけではなく、患者が自分の判断で、これこれの検査をして欲しいといってくる場合にもあっさりとOKを出す、というような場面も含めてです)

もし公立病院が赤字であっても、自分達の病院はこうあって欲しい、そのためなら赤字分は負担する、道路工事が減っても、水道代が高くてもかまわないといったコンセンサスが住民にあるのなら、もちろんそれはそれで良いのです。

ただ、城内病院に話を戻すと、頑張りようでは、黒字化もしくはとんとんという状況のように書かれていたので、だとすれば、たしかにもったいないと私などは考えたわけです。でも、現に医師不足なら診療所化はやむを得ないだろう、という行政の判断も仕方ない。小山先生も書かれているように、決まったのなら、その方向でやっていくしかないということでしょう。


Re: どうなる?城内病院 ( No.53 )
日時: 2009/03/20 20:43
名前: こやましんじ

弥次ねこさんへ

「小山先生もCTをリース契約で導入されたということですが、ひと月に何件撮影すればリース代が払えるとか、とても払えないが、それを他の収益でこれだけ埋め合わせることができるとか、いろいろと計算されたのではないでしょうか。そういった計算をされずに運営していたのが、赤字を膨らませている公営病院なのではないでしょうか?」

これは、道路(例のハマコーの海ボタル?)を作ったり、仮に野球場を作る場合でも、同じで、公立病院に限った事ではありません。適当に、採算が合うような計算書を公務員は作るのです。静岡空港だってどうだったか。今の社会のシステム、産業構造として、いかに皆で飯を食べていくかが問題なわけです。ちょっと、拡散しすぎましたが、患者が来ないところに、いくら計算が合うからといって、なんでもしてよいとう話ではないでしょうし、合わないからいつまでもできないと言う話ではないでしょう。そういう点では、公立病院の職員のほうが、民間病院に共通する点があるわけです。公共事業を決める公務員とは自ずから異なると思います。
ところで、公立病院も公営企業法でやっているわけで、病院の収入で、役場から来る事務員も給料が支払われている、といった、根本的な自覚が足りないのではないか、という点を私は感じた事があります。今回も、普通では、まず病院として存続させる事を第一に考えるのが、病院から俸給をもらう全職員の務めと思いますが、診療所化のために働くのは、そうではないような感じを受けます。民間ではない事でしょう。
話を更に拡散させるようですが、公務員制度の問題と、公立病院の問題と、共通する点と異なる点を分けて、しかも、公立病院を成功させる知恵はないか?考えてみる事はできないでしょうか?
Re: どうなる?城内病院 ( No.54 )
日時: 2009/03/27 21:21
名前: こやましんじ

どんぱっちさんへ

なかなか、意見も出ませんので、想定問題に対して、想定解答を考えました。説明会では、納得いくまでご議論いただきたく思います。

想定問題集

・なぜ経営状態の良い城内病院を診療所にするのか?
医師不足で常勤医が確保できないからです。しかし、幸い、万全を尽くしましたから、柏崎病院から4月に城内病院にこられることになっています。

・いつ誰がどうして城内病院を診療所化すると決めたのか?
城内病院の今後について、昨年の4月以前に指定管理者の方向を検討していると伝えました。すなわち、昨年4月に城内病院の指定管理者について、検討するように関係者に伝達しました。最大の理由は、六日町病院を県から引き継ぐにあたり、市立(民)病院として、運営する事を公言しました。ですから、現状では、南魚沼市に城内病院、ゆきぐに大和病院、六日町病院の3つを運営することになるのですが、それは困難と考えました。六日町病院を市立病院の拠点と考えましたから、他の病院についての診療所化はやむを得ないと考えています。

・医師の確保に万全を尽くしたか?
はい。

・他の病院から常勤医を補充するなどできないのか?
前問にお答えしましたが、柏崎病院から4月に城内病院にこられることになっています。しかし、城内病院院長の青木先生はご高齢です。常勤医一人なら、有床診療所での運営が限度です。

・以前から城内病院は診療所にするつもりだったのか?
病棟は25床で、医師以外に夜勤看護婦の確保に困難な状況がありました。夜勤看護婦を常時2名にすることは困難ですから、看護師基準の低い有床診療所では看護体制について緩和できると考えています。

・最終的には城内病院を廃止したいのか?
市立病院としては継続できませんが、市立診療所として継続します。有床診療所として開始しますが、少なくとも中ノ島診療所のように、無床診療所としては、最低でも指定管理者として継続することを考えています。

・この先地域医療をどう進めていこうと考えているのか?(はっきりとしないなんとか構想ではなく具体的な案はあるのか?)
市立六日町病院を南魚沼市の中核病院として、慢性透析、回復期リハビリ病院として市営で運営し、基幹病院との連携の上、100余の病床を持つ病院として運営し、そのほかに市立の診療所、大和診療所、中ノ島診療所、城内診療所、を、指定管理者として運営し、南魚沼市の医療を、トータルにバランスよく運営する計画です。

・医師一人探してこれないで他の病院も大丈夫なのか?
先ほど申し上げましたが、柏崎から医師を一人確保できました。

・城内病院診療所化に際して住民の意見を聴き理解を求めるなど行ったか?
まったく行っていません。市の病院運営に関しましては市長の専決事項ですので、元院長が市長に立候補した時点で復帰はありえず、医の倫理に反した医師を院長に再雇用する事は絶対にできませんから、ちょうどいい機会ですので、医師確保も難しい事から、城内病院の診療所化お検討を行いました。住民の意見を聞くような状況にはありませんでした。

どう突っ込みますか?
明日は五十沢の説明会ですね。

御健闘を期待します。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.55 )
日時: 2009/03/28 11:49
名前: どんぱっち

小山先生からお答えいただくとは(笑)

先の想定問題集は城内病院の診療所化について市民の皆さんが考える際に
あまりにも状況が混沌としているのでそれを整理したくて書いてみました


一連の出来事についてあらためて考えてみたのでちょっと書いてみます
文中想像で書いている部分もあるのでご注意ください


1.かつて城内病院は赤字続きで市にとって重荷であり廃止も検討したが
  いきなり廃止するわけにもいかず診療所化や指定管理者への委託を検討していた

2.小山氏が院長となり(思いのほか)頑張ってしまい城内病院を再生してしまった

3.市内に県立基幹病院建設が決まり既存の六日町病院を市で面倒見なくてはならなくなった
  六日町病院、大和病院で手一杯なので城内病院は不要と考え縮小、指定管理者への委託
  方針は変わらなかった
  
4.孤軍奮闘する城内病院側と市の考えに大きなギャップが生じた
  病院側と市側の意見の対立などが頻発

5.このままでは城内病院は潰されると考えた小山氏は捨て身で市長選へ出馬

6.現職市長当選 直後の議会で城内病院診療所化を明言

7.医師確保できないことを理由に城内病院の診療所化を決定

8.4月1日から診療所化の直前(3/28、30)に説明会?開催


問題点と感じるのは以下の3点

1.はじめから城内病院は縮小、委託、廃止ありきではなかったか?

2.地域医療について市はしっかりとした構想を持っているのか?
  
3.市民に対して充分な説明を行ってきたか?市民の声を聴いたか?


弥次ねこさんが書かれていた「医師不足」は今回の件と直接の関係がないように思えます
診療所化の理由付けには持って来いだと思いますが やりがいのある病院であれば
少数の医師は集められるのでは?というのは素人考えでしょうか
市が縮小、指定管理者への委託を前提としている病院では医師の皆さんも引いちゃいますよね? 
Re: どうなる?城内病院 ( No.56 )
日時: 2009/03/28 18:01
名前: 弥次ねこ

>弥次ねこさんが書かれていた「医師不足」は今回の件と直接の関係がないように思えます

どんぱっちさんのおっしゃる少数の医師というのが何人を指すのか分からないのですが、たとえば2人の常勤医がいたとして、「病院」としてやっていけるでしょうか?
法律上「病院」である以上は、当直を置かなければなりません。東京、大阪といった大都市周辺なら大学病院も複数あり、若手の医師をバイトに頼めるでしょうが、地方は大変です。
2人で当直を回していたら、激務に疲れ果て、燃え尽き症候群で辞めてしまうでしょう。
ただし、有床診療所にしたところで、病院並みの医療水準を保とうとすれば、やはり職員は職種を問わず燃え尽きるでしょう。(低いレベルで良しとするようなところなら、それはそれでいずれ潰れるでしょう)それで、結局は無床にならざるを得ないのではないか、という暗い予測をしてしまうのです。民間に委託するかどうかは、また別の問題でしょうけど。

>診療所化の理由付けには持って来いだと思いますが やりがいのある病院であれば
少数の医師は集められるのでは?というのは素人考えでしょうか
市が縮小、指定管理者への委託を前提としている病院では医師の皆さんも引いちゃいますよね?

おっしゃるとおりだと思います。
信越病院は医師集めに成功している地方公立病院のひとつに挙げられるでしょう。ネットで見るだけなので、実際のところは知らないのですが、医師住宅を新たに建設したり、病院長自ら、医師住宅として借り上げる家を見つけてきたり、町、病院とも協力して受け入れ体制をつくっているように見受けられます。
城内病院はどうなのか分からないですが、もし実際に縮小する流れがあるとすれば、引いてしまう理由にはなるでしょうね、医師に限らずなんの職種でも。
Re: どうなる?城内病院 ( No.57 )
日時: 2009/03/29 17:12
名前: どんぱっち

弥次ねこさん

実際のところ私には城内「病院」存続のために常勤医師が何名必要なのかわかりません

ただ「医師不足」という言葉が城内病院診療所化の免罪符のように使われているような気がするので
聞き流したくないと思いました

「城内病院の診療所化」が
・常勤医師の不足により導かれた結果なのか
・はじめから市側の意図したものなのか

大きな違いがあると感じています


手元に3月13日付け「説明会開催のお知らせ」というのが回覧で回ってきました 
(今のところホームページにはお知らせは掲載されていません)

これによると
「南魚沼市立城内病院につきましては、医師の確保が困難等の理由により、
4月1日から「診療所」として、地域医療の充実を図りながら、地域住民の皆様に
安全・安心の医療を行ってゆくための新たなスタートを切るべく準備を進めておる
ところです。
(中略)
皆様に今後の医療に対する考え方及び「診療所化」伴う計画の内容などについて
ご説明をさせていただきたく、下記のとおり説明会を計画いたしました。」
(後略)

日時 平成21年3月30日(月)午後7時から
会場 城内地域開発センター1階研修室
内容 城内病院の診療所化について
説明者 南魚沼市長、城内病院事務長


大勢の地域の皆さんが興味を持って集まってくれると良いのですが
年度末も末の3月30日ですのでどのくらいの皆さんが集まるのか・・・
Re: どうなる?城内病院 ( No.58 )
日時: 2009/03/29 23:05
名前: 弥次ねこ

本日の朝日新聞によると、公立病院の8割が赤字だということです。ということは2割が黒字ということか? だとすれば、意外に多いな?と少し驚いた次第です。細かい実情は知りませんが、数字のトリックなどもあるのかもしれないし・・・ただ、きっと方法はあるのでしょう。
赤字が原因の市長のリコールや土下座など、諸々の話が載ってましたが、城内病院は取り上げられていませんでした。現職院長が現職市長に対して選挙を戦うというのは、私にはセンセーショナルに思えて、今まで見てきたのですが、診療所化、とか民間委譲とかいったなんらかの形としての結果が出てからでないと、記事にはなりにくいのかもしれません。さらに、現地の人たちの意見や動きも大切でしょう。
その意味では、説明会への参加者数とかは重要ですね。

この掲示板をみても、あまり書き込まれていないようで、みなさんに関心があるのかどうか、少し疑問ではあります。理由はいろいろあるでしょうが、
1、病院を利用するのは高齢者が多く、高齢者はネットなどはあまり見ないだろう。
2、逆に若い人は病院にかかる事も少なく、それに病院の実情を知る手立てもないな   ら、何を書いてよいのか分からないかもしれない
3、自分の住んでいる地区の病院でないなら、そもそもあまり興味はないかも。
  県立病院をどうするかという話だったら、周囲の人口も多いだろうから、関心    をもつ人もいるだろうが・・・
4、掲示板に書き込むような人が、むしろ異端者かもしれない(苦笑)
などと考えてしまいます。

説明会の様子について何か分かったら、書き込みお願いします。
Re: どうなる?城内病院 ( No.59 )
日時: 2009/03/30 10:18
名前: どんぱっち

弥次ねこさん

公立病院赤字・黒字の分水嶺は「病院に元気があるかどうか」だと感じています

元気のある公立病院の条件
1.(真剣に)病院を必要とする住民と自治体があって
2.志の高いリーダー(院長?)がいて そこに若手医師が集まり 改善をすすめ質の高い医療を提供
3.患者さんが増える

これを短期間で実現されたのが小山先生であったと思うのですが
城内病院では残念なことに肝心な1.の部分で自治体側が消極的(診療所化・民営化の方向)
であったため今回のような結果になってしまった
個人的には自治体側の責任が重大だと感じています

そして今回の診療所化によって民営化もしくは廃止という方向へ進んでいくのでしょう

書き込みが少ないことについては城内病院を必要としている患者さんたちの大半が高齢であることが一番です
また地域性も大きく影響していると思います
Re: どうなる?城内病院 ( No.60 )
日時: 2009/03/30 21:35
名前: こやましんじ

どんぱっちさんへ

笠原議員の掲示板に書かせていただいた投稿を、ここにも掲示させていただきます。

城内病院の診療所化に関して、病院と診療所の違いは、25床が病院で、19床なら診療所、といように定義的にご理解いただいているようですが、もう少し、内容とそこで働いている人材について、ご検討いただきたかったと思います。そして、頑張ってきた内容とそれを成し遂げてきたそこで働いている人材について、敬意を払ってほしかったと思います。これは、60周年を行わなかったのですから、そんなにないことは分かっていますが。
それまで、何とか病院を維持するために頑張って、内容的にも、CTやリハビリなど、リースで充実させてきた点を考えていただきたかったです。職員にしても、大変高いコストを払って良い人材を維持して、病院を運営してきましたが、そのことについて何もご検討をいただかなかったのは、非常に残念でした。
有床診療所が上手くいくことをお祈りしますが、それは、市長が赤字でも維持すると約束した事とは無関係に、経営的困難を懸念します。
もう少し、住民の安心・安全について、長い歴史的な視点と今後の地域の高齢化を含めて、その地域にあった医療体制を考えてほしかったと思います。
私も、4月1日から診療所を開業します。城内診療所は既にそこに優れた訓練された人材も、また、地域の固定された患者さんもいます。しかし、私にはまったくいませんし、まったく知らない土地で、しかも、患者さんはゼロからの出発です。職員も城内病院ほど訓練されていません。競争ですね。どちらが長続きするでしょうか?どちらが地域の方々に喜んでいただけるでしょうか?経営的にもどちらが成功するでしょうかね?結果が楽しみです。
最後に、今まで63年にわたって引き継いできた医療財産を、少数の相談でそんなにまで簡単に縮小してしまったことは、重ね重ね残念ですね。これからはますます地域は医療・介護のニーズが高まっていくと思われますのに。

いずれにしても皆さんの判断ですから、それが正しく振り返られる日が来る事をお祈りします。頑張ってください。
お元気に。

小山信二
説明会リポート ( No.61 )
日時: 2009/03/30 21:51
名前: かんり人

かんり人です。
地元地域で行われた説明でしたので早めに夕食をとって参加してきました。

出席者は40名ほどで一階の和室がほぼ一杯でした。
年齢層は60代より上の方が多くほとんどが男性。
一番若かったのは塩沢の牧野議員さん(ご苦労様でした)。

4月1日からの診療所長 高橋聡先生(48歳・千葉県出身・内科)。

市長から診療所へ移行する経緯などの説明
・医師不足(青木先生の常勤の契約は3月末迄)。
・宿直のいない状況は異常であるとのこと(大和病院宮永先生からの指摘)。
・高橋先生の赴任が決定したのが3月になってからであった。

事務長から病院と診療所の違いについてなどの説明
・医師不足によって国からの診療報酬が減額されてしまう。
・看護師数はこれまでどおり。
・薬剤師もこれまでどおり。
・応援医師もこれまでどおり。
・外来はこれまでどおりの予定。
・ベッド数は19床(一般15、療養4)。
・在宅診療も同様。
・リハビリ 80〜90名(好評)。
・健康診断 人間ドッグ(受診者100名)、企業検診(受診者400名)。
・送迎バス これまでどおり 大和病院のバスも乗り入れ。
・外来 再診料+10〜20円 慢性疾患指導料+70〜80円 本人負担増。
・入院料 基本料が下がる。
・6割が城内、2割が五十沢、1割が市内から。

質門(大勢の方から質問がありました)
Q.何故今なのか?もっと病院として頑張ってもらいたい。無床化につながるのではないか?
A.医師の不足によるもの。医師の確保が出来ない。宿直医師がいない病院というのは問題が多い。
Q.診療所で採算はとれるのか?夜間の対応は出来るのか?
A.市長の任期中は有床を堅持する。夜間対応はこれまで同様に対応。
Q.院外薬局に出来ないのか?
A.周辺の土地が必要。希望する薬局があれば検討する。
Q.ベッド数減によって他病院に行くことになるのか?
A.城内病院の入院患者は介護患者が多い。他の医療機関と連携をとる。
Q.もっと早くこういう会を行うべきであったではないか?
A.見通しが立たないうちに説明はできない。ご理解願いたい。
 診療所にしたが医師の確保ができれば病院に戻すこともあるかもしれない。
Q.これで医師の確保はおこなわないということか?
A.継続して医師の確保に努める。整形外科、小児科など。
Q.地元出身の医師もいるのではないか?確保できないか?
A.地方の勤務医は避けられているようだ。地元出身医師の例はある。
Q.奨学金制度などで引き付けられないか?医師の育成をはかれないか?
A.奨学金制度はあるが利用されていない。
Q.昔、城内病院が赤字で大変だったと聞いていたがどうなったのか?
A.累積赤字は現在もあるが、それで回らなくなるというわけではない。

以上、説明会リポートでした。
Re: どうなる?城内病院 ( No.62 )
日時: 2009/03/30 23:22
名前: こやましんじ

管理人さんありがとう。
説明会の様子はよく理解できましたが、診療所化で地元の人は納得したのですね。

私が簡単に経営的な危惧を申し上げると、看護師が今のままで、病床が6床減れば、収入はそれだけ減るし、当然単価も7割程度になるから、入院収入は半分程度になるんですね。満床で運営しても、約数千万円の減額です。コストが変わらなければ、それだけ赤字になります。まして、70%の稼働率に減れば、それだけで大変です。
コストが減るとしたら、医師の分でしょうか?それで、いくら繰り入れれば、均衡予算ができるのでしょうか?それについて誰か聞かれましたか?どのような、予算、外来数が何人で単価がいくら?入院数が何人で単価がいくら?少なくともそんな説明はありましたか?
しかしながら、”医師が足りないから、診療所化もやむを得ない”という結論は、かなり早いですね。確か私の前任の院長、小沢先生は、医師は小沢先生お一人で、1年半ほどは頑張ったと記憶しています。頑張りもしないで、医師が増えれば病院に戻すなんてちょっと簡単ではありませんね。住民の方が納得したのであれば仕方ありませんね。また、赴任予定の先生の条件であれば、仕方ないでしょうか。それはお聞きになりましたか?
兎も角、結論が出てしまっての説明会では仕方ありませんね。
後は頑張ってくいただくしかありませんね。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.63 )
日時: 2009/03/31 20:21
名前: 弥次ねこ

管理人さん、説明会の情報ありがとうございます。
人数的には盛会だったようですし、質疑も活発だったとのこと、住民の方々の関心があるのが分かっただけでも、この掲示板に来ている甲斐があるというものです。

質疑応答を読むと、まず、医師が確保できたら病院に戻す、という回答は眉唾ものですね。
病院に戻すという、しっかりとした意図をもって募集をするのでしょうか。病院よりもゆるやかでよい医師配置の有床診療所に、病院に戻すまでの間、一時的にしても過剰配置をするわけですから、そんな求人をするのですかね。仮に整形外科医や小児科医がひとりずつ雇えたとして、「病院」として入院患者までを受け入れるとは、考えにくいです。小児科医が一人の病院で、小児の入院患者を受け入れる病院というのはめずらしいのでは。まして、当直までしてもらうつもりでいるのでしょうか??? 科を増やすことと当直医師を確保することは、別の問題のはずですが、医師のトータル数でのみ考えているような感じがします。だとすれば、とんでもない誤解ですね。

城内病院への課題として、医師不足をクリアするというのが第一のハードルで、赤字を出さないというのが第二のハードルということでしょう。医師不足のハードルは、「診療所化」でクリアしても、上の小山先生のご計算だと第二のハードルで、あっけなくつまづきそうです。新しい所長先生は大変でしょうが、どれだけのバックアップをしていくつもりがあるのか、自治体のやる気が問われていると思います。(やる気があることを期待します)
Re: どうなる?城内病院 ( No.64 )
日時: 2009/04/01 10:01
名前: どんぱっち

年度末でドタバタして書き込みができませんでした(汗)

地元が納得しているかどうかは疑問が残ります 決定事項の説明会という形式ですから
ただ4月1日に病院が無くなってしまう訳ではない これまで通り診療は続けられるということで
大きな反対の声は聞こえてきません

採算面については一定範囲ならば市長在任中は面倒をみてくれると明言されていたようですので
この言葉を信じるほかありません

一連の件で感じたのは普段から城内病院と地元住民が情報交換などをおこなうなどの仕組みができていなかった
問題?が起きてからでは間に合わないということです
ガイアの夜明けで紹介されていたような地域住民との定例的な協議会?みたいなものがあれば
病院の現状などがもっと住民に伝わっていたのではないかと思いました

宿直医がいなかったというのは今回初めて聞きました
大和病院の宮永先生いわく「病院としてありえない状況」だと
市長はことさらこの部分を強調していたようですが どんなものなのでしょうか?
Re: どうなる?城内病院 ( No.65 )
日時: 2009/04/01 14:42
名前: こやましんじ

どんぱっちさんへ

本日開業しました。午前中は9人の患者さんでした。午後はまだ一人です。時間があるので、フォーラムを見ました。
宿直ですが、保健所に届けて宅直の許可をもらいます。別に、城内病院が違法に行われていたわけではありません。たいてい、月から木曜日まですべて、私が宅直・拘束でした。したがって、月の半分以上を私がやっていました。金が青木先生か堀内先生、土日は、応援の先生、日曜の夜も、私がやることがありました。
入院患者はいわゆる慢性期の患者さんで、急変がなければ呼ばれることはありませんでしたが、それなりに、何があるかわからないので、制限がありました。昼間見ておけば看護婦さんも一人一人、力があるのでよく対処していただきました。そのほか、在宅患者の救急にも対応しました。蛇足ですが、宅直の場合、常勤医の場合は、一夜、もらっても八〇〇〇円位かとおもいますが、外から来られる先生は三〇〇〇〇円ぐらい、だったような気がします。差があるのはおかしいのですが、私は甘んじて宅直をしていました。
当直医について考え方ですが、宿直医のいない城内病院を、宅直で、私はなんとかやりくりしてきました。決して違法でなく、届け出で許可をもらっていたことです。この機会に、皆さんにこのことが知ってもらえて、良かったかもしれません。ともかく、そういう病院でも、63年間何とかやってきたわけです。規則が大事か、できる範囲でやってもらい、病院を守ってほしい、地域医療を守ってほしい、と思うかは、皆さんが決めることです。しかし、4年9か月余り、そのことで苦情を受けたことはありません。
2次救急は、六日町病院や大和病院や斎藤記念病院の先生方にご負担をいただいていたとは思いますし、それはそれで頑張っていただいていたと思います。ありがとうございました。
最後になりましたが、私が在任中に市長や宮永先生から、病院としてあり得ない、と言われたことは一度もありません。見識が狭いと思われます。
午後の2人目の患者さんが来ましたので、失礼します。ごきげんよう。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.66 )
日時: 2009/04/01 23:18
名前: どんぱっち

小山先生 開業おめでとうございます!!

宿直医の件 お聞かせいただきありがとうございました

聞き伝えなので詳細不明ですが
もしかすると小山先生が退職されたあとのことを
言っていたのかもしれません

彼の地でのご活躍をお祈りしています
Re: どうなる?城内病院 ( No.67 )
日時: 2009/04/01 22:36
名前: こやましんじ

どんぱっちさんへ

ご声援ありがとう。私も”彼の地”で頑張ります。
ところで、今となっては後の祭りですが、本当に城内病院を守る気持ちがあったら、市長選挙が終わった後で、もう一度、私に「城内病院に」と、声を掛けるぐらいはできたと思います。しかし、そうするより、城内病院を診療所化にしても止むを得ないとお思いになったのでしょうね。
私は、選挙に勝った場合と、選挙に立たなかった場合は、城内病院づとめを辞める決めていましたが、選挙に立って負けた場合は、当初は、1ないし2年は、城内病院に戻るつもりでした。だから、立候補して失職するまでは、選挙後の勤務表に自分の名前を入れときましたし、選挙中の代診の手配だけをしておきました。
今は何でも言えるから、何とでも言え、という話でしょうが、そういう点で、私は政治家には向いていなかった、ないし、政治家の気持ちが分からなかったのでしょうね。きっと、このことは、皆さんのほうが分かっていたのでしょう。
小山先生が選挙に落ちたらここにとどまるという、噂が流れたそうですが、その事は半分は当たっていたが、噂を流したした人達はそうさせようとは思っていなかったのでしょうね。決めるのは誰か、わかっていたからです。しかしながら、城内病院の存続のためには、小山を戻すのが一番手っ取り早い、それは誰もがわかっていた話です。しかし、現実には一番難しい選択枝だったのですね。これだけは言わないでおいたほうがいいかなと思っていましたが、言っておいたほうが未練がなく、すっきりしますので書きました。もう、城内病院は診療所になりましたから。
さて、兎も角、私は開業しました。頑張ります。皆さんも頑張ってください。良い医者にめぐり会え、育てるように。失礼、もう、めぐり合っているかもしれませんね。

では、ごきげんよう。

小山信二
みなさん方よくやってなさいます ( No.68 )
日時: 2009/04/02 17:18
名前: なかやま

 小山先生、新規開業おめでとうございます。
 南魚沼の皆さんも、遠くから暖かく見守ってあげてください。

在宅拘束について ほんの一言
 2月、3月と1回ずつ「日曜3時以後に拘束(宅直医師)者が用事で
いなくなるので、なにかあったらお願いしたい」と事務長さんから依頼
をうけました。ただ家へいるだけのことなのですが、何かあった時に
うまく対応できるかどうか(駆けつけるにも遠いですし)不安でしたが、
幸い何もありませんでした。実際の当直でなくても苦労なんですね。
小山先生、何年もよくやりましたね。
 お疲れ様でした。
みなさん方よくやってなさいますー追加 ( No.69 )
日時: 2009/04/02 17:24
名前: なかやま

失礼しました。表題の趣旨は「たとえ在宅待機でも、医療に穴が
開かないように、今の病院の方々も頑張っておられる様子が見える」
ということです。
Re: どうなる?城内病院 ( No.70 )
日時: 2009/04/12 15:09
名前: こやましんじ

みなさんへ

いろいろ討論しましたが、混乱なく城内病院は城内診療所になったようですね。これからも地域医療の拠点として、貢献される事を期待しています。ところで、私はクリニック(診療所)を開業したのですが、こちらのお年よりは診療所と病院の区別はありません。みな、「びょういん」、「病院」と言うのです。「病院で見てもらおうね」と、私のクリニックにやってきます。決して、診療所(クリニック)で、とは言いません。
もう、そうしたことにこだわらないで、地域の方々の健康にかかわってください。あえて、城内診療所などと言う必要はなく、城内病院として、地域の方々に心に残っていればいいのです。建物も職員も変わらず、変わったのは病床の数(わずか6床)と名前だけですから。
なんの偶然か、私のクリニックは南城つはこクリニックと言います。こちらが南城市(沖縄県)だからという意味もありますが、南魚沼市立城内病院の頭文字、南と城、で、南城と取れなくもありません。つはこは地域名の”津波古”の「つはこ」です。南魚沼の城内病院から、つはこクリニック(病院)へとも取れなくもありません。
ところで、今日は第二回目ですが、私は”FMニライ”というこちらの”ちゃたん(北谷)のFMラジオ放送に毎週出演することになりました。日曜日(今日も)午後4時から30分間、再放送が火曜日午後7時からです。こちらの地方放送ですが、インターネットのストリーミング放送で、全国どこからでも聞けるそうです。検索で”FMニライ”と入れていただいて、ホームページから”ストリーミング放送を聴く”をクリックしてもらえば聞こえます。もし、これから聞いてくださる方が少しでもいらっしゃると、嬉しいですね。
南魚沼の話も当然たくさん出てくるかもしれませんね。もし、ご家族の方で、僕の患者さんだった人に、「小山先生の声が聞こえるよ」と、聞いていただくような事をして下さったら、ありがたいですけどね。
「楽しみだね。小山先生の声が聞こえるよ}と。
では皆さん、これからはお耳拝借と参ります。

お元気にお過ごしください。

小山信二

追伸:長い間、有意義な議論をありがとうございました。
こやま先生の補足 ( No.71 )
日時: 2009/04/13 12:34
名前: なかやま

まずは「つはこクリニック」の今後の発展を祈ります。
さて、病院は「20床以上の入院設備のある医療機関と定義されています。
19床以下は診療所です。ただ名称は何でも良いのですが、「病院」という語
を使うと医療法違反になります。ーー「犬猫病院」や「おもちゃの病院」は
法律に引っかかりません。「病院」という名前以外は何でも良いのですが、
昔から「○○医院」が多く使われて来ました。最近は「クリニック」が多く
なりました。当事者でなければ、どうしても「診療所へ行って来た」でなく
ても「病院へ行って来た」でもかまいません。
 また逆に病院が○○医院をつけてもかまいません。順天堂大学付属病院の
看板は昔は「順天堂医院」でした。そんなところで、城内もつはこも、中山
医院も医療法上の分類は「診療所」と理解してください。なお、入院設備の
ある診療所は「有床診療所」外来だけのは「無床診療所」です。
Re: どうなる?城内病院 ( No.72 )
日時: 2009/04/14 11:27
名前: どんぱっち

小山先生

沖縄ですか一度行ってみたいですね

南魚沼はようやく桜が満開となり農作業も始まって春らしくなってきました

城内診療所にも新任の先生が来られたようですので皆も様子を見ているといった感じです

FMニライ
http://www.fm-nirai.jp/top.html
放送中の音声
(小山先生の番組は日曜日午後4時から30分間、再放送が火曜日午後7時)
http://www.simulradio.jp/rd/click.cgi?url=http://www.simulradio.jp/asx/fm-nirai.asx&file=nirai
再度蛇足でー病院と診療所について ( No.73 )
日時: 2009/04/15 08:58
名前: なかやま

先に述べましたように、病院と診療所の区別は入院ベッド数だけです。20床以上か
19床以下かの違いだけです。大きさには関係ありません。例えば、長岡市の立川病
院が付属施設として持っている透析施設は、城内病院よりはるかに大きい建物で、職
員の数も患者数も多いのですが、名前は「立川病院中越診療所」です。
  通称 中越腎センター とも標榜されていますがーー

 城内診療所だって、入院患者数はこのままでも、内容も規模は大きくできるのです。
Re: どうなる?城内病院 ( No.74 )
日時: 2009/04/29 08:22
名前: こやましんじ

城内病院に関心をお持ちのみなさんへ

4月の祝日は、29日、昭和の日だけですが、なぜか、5月の連休を予感させて、最も楽しい時期ですね。私も、開院当初とはいえ、城内病院時代に始めた、研究再開の継続のため、アメリカへの渡航を予定していたのですが、豚インフルエンザの流行により、泣く泣く取りやめました。出国は大丈夫なんですが、アメリカからの帰国時に、経過観察とかの理由で、10日間も成田でホテルずまいをされたら、開業したてのクリニックは存続の危機になるから、心配してのことです。
そこで、こうして「どうなる?城内病院」に、メールを書く事になりました。もう、診療所になったから、終わりと考える方もいるかもしれませんが、私は時々投稿させていただこうか、と、考えています。それは、23年度末には介護保険の4床は減るのは確実ですから、見ていないと、どんどん無床診療所になってしまいそうですから。そしたら、病院への復活は、絶対にありえなくなるからです。
私は、開業しましたが、時々、傷を縫う針はどこのメーカーだったか教えて、とか、肺炎球菌ワクチンはいくらでやっていたかとか、特定疾患指導料はどうするか?とか、外来管理加算はどうするか?とか、尿道口の消毒はどんな消毒液か?、とか、電話でお助けていただいています。こうした経験の積み上げがあって、63年もやってきたんだ、と言う事は、周囲の方々はわかっておられないんでしょうね。城内病院は建物や職員はすぐに雇えるかもしれないけど、一回終わったら、こうした知識というか、経験の積み上げでできたものは、回復が難しいのですよ、本当は。人が一人なくなれば、図書館が一つなくなると言われますが、そうしたことは、医療機関にもある程度当てはまりますね。
久しぶりの祝日、アメリカキャンセルで予定のない祝日に当たり、取り留めなく、今日の心境を語らせていただきました。今後も、この場で、南魚沼市の医療が語られる事を期待して、時々、書かせていただきます。
では皆さん、連休を、北国の懐かしい春、日々に”ぶなが芽吹く”里山を、楽しんでください。
ごきげんよう。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.75 )
日時: 2009/06/12 22:17
名前: こやましんじ

どんぱっちさんへ

久しぶりにお便りします。
最近、南魚沼市民フォーラムが元気ないように思います。楽しみに、時々見ていますが、4月29日の私の投稿以来、新しい投稿がないのが気になります。私は、今でも南魚沼市に愛着がありますが、是非、いろいろな身近な話題について、自由活発な議論があると良いですね。私も名誉市民として参加させてくださいね。
福沢諭吉ではありませんが、自由とは、多事争論の間にあると思います。

お元気に。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.76 )
日時: 2009/06/18 16:54
名前: どんぱっち

こやま先生

初夏なのに冬眠中のどんぱっちです(笑)

正直なところ(先生も同様と思いますが)市政に対して地域の皆さんの関心が低く
ごく一部で盛り上がってるだけのように思えてしまいました
逆に言うと市民の無関心がこのような市政にしてしまったともいえます
そんなわけでちょっと充電中です

国政では与野党逆転もありそうな状況ですが南魚沼ではそうはならないでしょうが
今年は任期満了での市議会議員選挙がありますので皆さんがどの程度目を向け
考えてくれるかに期待したいと思います

城内診療所のほうは特に問題もなく運営されているようですが
秋口から冬場に向けて新型インフルエンザがどう拡がっていくかで
地域の病院・診療所・医療機関のあり方などに目が向くかもしれません

このフォーラムは私専用って訳じゃないと思いますので
他の皆さんもどんどん書き込んでくださいね
市長さんもチェックしてくれてるみたいですし(笑)
Re: どうなる?城内病院 ( No.77 )
日時: 2009/11/29 09:07
名前: こやましんじ

おひさしぶりですね。
城内病院は城内診療所になりましたが、地域の医療機関として、ご健闘されていると思いますが、いかがですか?実際のところは知るよしがありません。外来患者さんの数や入院患者さんの数はますます増えていますか?
心配している、収益と支出のバランスは、診療所になって改善しましたか?知るよしがありません。大和病院のように、広報誌”みつば”のようなものがあっるといいですが、城内診療所だよりには、その事は載っていませんね。
どんぱっちさん、分かる範囲でいいですから、お知らせください。城内診療所の様子を。遠くから、インターネットだけを頼りに見ている人もいますので。
お元気に。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.78 )
日時: 2010/01/31 01:07
名前: こやましんじ

皆さん、お元気ですか?城内病院(診療所)の方々、お元気ですか?

時々、南国にいても、雪国を思い出します。ご存知の方もいらっしゃったかもしれませんが、そちらにいるときに、私は東京にコラムを書いていました。大寒の頃を思い出して、その頃書いたものを読み返して、皆さんにお届けします。

診療所だより〔城内病院は、本当に診療所になってしまいましたね)
山医者のある日の出来事

雪国の大寒、“ドクトル・ジバコ”の映画のような、新雪の降り積もる一面真っ白な朝、来院する患者は積雪に反比例して少なくなる。小柄で丸顔の・・さんが、ドアが開閉するたびに、中待合いに座っているのが見える。八海山の麓のスキー場近くから出て来たのだ。肌着になって背筋を伸ばして待っている。
「よく来たね」
「息子に連れて来てもらったよ。嫁がいいから」
姑の定期の診察日を忘れずに、病院に送らせたに違いない。
「子ども、何人いるの?」
「たった8人」
8人の子が“たった”には呆れてしまう。グッと堪えて、血圧を測って、聴診する。
「頭は亡くしたよ」
「じゃあ、9人も」
「長男、長女。その後、女っ子をもう1人、どうしても欲しくってね。22歳から一年おきに男ばっかり7人。皆、家で産んだ。産婆が間に合わなかったこともあったよ」
「よく育てたね」
「山羊の乳のお陰。産んで育てるのは苦にならなかったけど」
「・・さんは長い間、中風のお舅さんを看病したのですよ」と事情に詳しい看護師が言った。
グレイの髪にキャラメル色のものが目に留まった。
「ヘアバンド?かわいいね」
「カチューシャ」と、髪に挿したものを外して見せた。
“復活”のカチューシャ役を演じた松井須磨子がしていたことから、日本だけでそういうらしい。
「大正の初期だね。・・さんが生まれた頃だ」
思わず、“カチューシャの歌”をハミングした。
「もう少し甘いもの控えたほうがいいなあ、・・さん」
「甘いものはおいしいからねえ」これにも参った。
畑仕事の好きな89歳の・・さんも、歩き始めた“みいちゃん”のように“畑に出たい”と雪が消える春を待っている。

南魚沼の皆さん、お元気ですか?時々、思い出しています。お元気にお過ごしください。
春はもうそこです。沖縄は桜が咲いて春祭りですよ。

こち吹かば におい起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.79 )
日時: 2010/03/26 22:01
名前: こやましんじ

アクセスが2000を記念して、

診療所だより

 自然豊かな南魚沼では、10分も歩けば山に行けたし、目線を少し上げれば四季の山々が間近に見えた。里山は春にブナが芽吹いて、日々に緑が濃くなり夏、秋は紅葉があわただしく、未だ燃えぬ間に、白い粉を撒いたように初雪に覆われた。在宅患者を訪問すると、高床の家々のコンクリートの階段や玄関のアプローチは、どこも、盆栽や鉢植えや花壇に彩られていた。
 廊下をサンルームのようにして、外向きに雛壇を造り、鉢植えや盆栽を展覧会のようにしているお宅があった。趣味とはいえ訪問するものを喜ばせた。さすがに私も、
「すごいですね」と、花や木を愛で、ひとしきり話をしてから、
「お元気ですか」と、奥の部屋の真ん中にあるベッドサイドに行き、
そして、耳を立て聞いていて笑顔を見せる患者さんに、
「あの時“僕がいい”って言ってくれたね」と、声を掛けた。
 実は、城内病院に赴任した頃、在宅患者は数人であった。それでも、前院長から“在宅はあなたにやって欲しい”と頼まれた。訪問患者はすぐに月に20人ほどに増えた。
 もう一人、医師が副院長として赴任した際、退院時から訪問に移る患者さんは、順番にお願いしようとした。すると、ベッドに寝たきりになってほとんど口も利けないと思っていた患者さんが、“先生でなければいやだ”と、言っていることを知った。
「どうして」
「先生は元気がいい」
「何も答えなかったじゃないか」
「みんなわかっていたよ」と言われて、私は妙に納得して“こちらの都合ばかりではいけない”と、訪問診療は自分がすることにしたのだった。
 冬でも家々で花々や木々に慰められ、患者と家族の生活に触れ、患者さんにも励まされ、教えられることが多かった。南魚沼の在宅医療の、懐かしい思い出である。

皆さん、桜はもうすぐですね。梅も一緒に咲きますね。沖縄には、桜は咲きますが、梅の花はありません。
お元気にお過ごしください。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.80 )
日時: 2010/03/30 16:22
名前: 浦佐っ子

南魚沼市はこんなに地元住民思い・お年寄り思いの

良い小山先生を退任させてしまい本当に良いのだろうか?

これからの若い先生で本当にここまで住民に愛される先生がいるのだろうか?

心からそう思います。
Re: どうなる?城内病院 ( No.81 )
日時: 2010/04/18 09:54
名前: こやましんじ

アクセス2100を記念して

診療所だより

 市営住宅のコンクリートの階段を上り詰め、玄関を引き開けると、暖簾越しにコタツに当たって居る“・・さん”が見える。
「・・さん、変わりない?」右横に座る。
「先生かい?」と、上体を向け、両手を差し出す。
「先生だよ」
「来たか。先生か。ありがてえ。ありがてえ」と、・・さんは私の手を握り、温もりと感触を確かめる。
「南雲先生もいい先生だが、おめえさんもいい先生だ」
「・・さん、わかるの?」
「わかる。わかる」
 ・・さんは98歳と高齢である。身体は逆U字になるほど曲がっている。その上、目がまったく見えない。それでも、部屋を伝って歩き、オムツもせず、風呂にも入っている。住み慣れた家であるからこそ、過ごせたのだろう。誰にも失った視力を回復させることはできない。せめて、月に1度の私の訪問が・・さんの在宅療養の支えとなるよう願っている。
 ・・さんと私は、山菜やきのこや、天気や、血圧のことや、故南雲院長のことを話す。・・さんは聞き覚えのある話をすることも多いが、気持ちを込めて熱心に話す。すぐに時間が経ってしまう。そして、私が発つのに気がついて、手を離さない。
「・・さん、先生を離して」と、看護師が催促する。
「先生は忙しい。具合はいいと。手を離さんか」と、見守る長男の嫁も気が気ではない。
「行くだか?先生か。ありがてえ。ありがてえ」
 ・・さんは握る手を弛める。
「じゃ、また来月来るよ。・・さん、元気でね」
 私は医者であることで・・さんと出会い、手と言葉で交流を深める。・・さんはそれを楽しみに待っている。私は“いい先生”のまま、いつまでも“・・さん”の在宅療養を支えようと思う。

“浦佐っ子”さん、ありがとう。私よりもっと“いい先生”がいらっしゃいます、よ。
ともかく嬉しく思いました。感謝。

ふるさとは遠きにありて思うもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
・ ・・・・・・・・
室生犀星“小景異情―その二”より抜粋

時間がありましたら、南城つはこクリニックのホームページをご覧下さい。
http://www.nanjo-tsuhako-clinic.jp/
皆さんお元気にお過ごしください。

小山信二

追伸:最近の南魚沼市民フォーラムは活発ですね。楽しみに見ています。
Re: どうなる?城内病院 ( No.82 )
日時: 2010/04/29 22:15
名前: こやましんじ

新型インフルエンザ、渡米取りやめから1年

診療所だより

 パワーリハビリは竹内孝仁氏が提唱したもので、高齢者の自立支援の一助となる。その効果に私は城内病院に赴任する前から確信があった。しかし、実現できなかった。それで、私はパワーリハビリを城内病院に赴任する条件にした。にもかかわらず、1台100万円余のマシンを4台入れるのは大変だった。私の執拗な抗議の末、赴任半年後にようやくリースで導入できた。
 私はパワーリハビリを城内病院に通院する高齢患者に片端から勧めた。脳卒中後遺症で障害のある方や廃用徴候のある虚弱な方、歩きや動作が鈍くなった方や閉じこもりがちな方、ほとんどの高齢者が該当した。皆、私達の説得でパワーリハビリに通い始めた。
 パワーリハビリには、私の訪問診療の運転手にバスで送迎してもらった。直ぐにパワーリハビリの効果を実感して、数十名の方が毎週2回、楽しみに通うようになった。
 ある日の午後、脳卒中で左麻痺のある・・・さんが外来ソファーで送りのバスを待っていた。訪問診療に向う私に、
「先生、娘のところに行ってくる。パワーリハビリを1ヶ月間休むよ。いいかい?」
「いいさ、楽しみだね」
「帰ったら、また通うよ」
 彼は3年前に妻を消雪溝に転落する事故で突然亡くし、一人暮らしをしていた。前年の上越地震から復興が進む小千谷の、“迷惑を掛けたくない”娘さんからの誘いだった。
 病院の玄関にバスが来た。右手の杖を支えに立ち上がった。麻痺のある左腕を腹に引き寄せ、左半身を振り出した。杖を出して大股でバスに向った。動かない左半身を移動するために全身からパワーを発揮する。その姿を見て厳粛な気持ちになった。
 私は城内病院にパワーリハビリができて良かったと実感した。

 小山信二

追伸:“病院だより”のパワーリハビリ・シリーズ、およねさんと松っつんの会話、パワーリハビリを立ち上げたものとして、とても嬉しいです。毎回、楽しみにしています。
(注:パワーリハビリ=パワーリハビリテーション)
Re: どうなる?城内病院 ( No.83 )
日時: 2010/05/09 23:28
名前: こやましんじ

アクセス2200回を記念して

診療所だより

城内病院は私が赴任したときは内科の院長1人だった。かつて“お産が年間400もある”地域の産科病院だったと聞いて、故南雲院長のご苦労が偲ばれた。医師の確保や経営など、楽なときはなかっただろうに。
私が院長を引き継いで、短期間、常勤医が3人になったことがあった。私達は中待合にあった産科病院の名残の外来トイレを取り壊し、新しく診察室を一つ増設した。中待合が広くなり、車椅子の移動も容易になった。時代が城内病院の役割を高齢者の病院に変えた。
ある日、診察を終えた88歳の患者さんの話である。
「薬、出しとくよ」
「薬もらえて幸せだ」
「当たり前じゃないか」
「そうかい?母は薬ももらえず、死んだよ。心臓を難儀がって、評判の先生のところに、親戚全部を頼んで連れて行った。大雪の日、馬車でゴトゴト、雪のデコボコ道を」
私に白黒映画のシーンが脳裏に蘇った。
「いつ」
「戦時中さ。昭和19年、薬も何もくれなかった。何こと悪いことした?」
「“お母さんは悪いことなどしていない”当たり前じゃないか!」
「そうかい」
「いくつだったの?お母さんは」
「54歳!」
「僕の歳か!」
「そう?その歳で、家に帰って亡くなって、墓に積もった大雪を掘って、その下の凍った土を掘って、土葬した」
「へー」また、白黒映画のシーンが脳裏に蘇った。
「ああ、今は薬をもらえてありがてえ」と、母親が薬を与えられずに死んだことが、米寿を過ぎた今も“薬出しとくよ”の言葉で噴出したのだろう。
「いい話、ありがとう」
「いい話じゃあないよ」
「確かに、ごめんね」
城内病院は、今88歳の患者さんのお母さんが54歳で亡くなって2年後、昭和21年夏に開設された。そして、平成18年に60周年を迎えたのだった。
しかし、60周年は静かだった。地域の人達の思い“小さくとも、いつまでも、地域の病院を” が結実して迎えたのに。

小山信二

追伸:今年4月は診療所1周年でしたね。私が2年前に書いた“62周年を迎える25床の病院の、最新1/15の経過”をご参考までに、↓をダブルクリックしてください。
http://www.niigata.med.or.jp/file/pdf/1780.pdf
Re: どうなる?城内病院 ( No.84 )
日時: 2010/05/10 08:06
名前: アトム

小山先生へ

書き込みを見てなつかしく思いました。あの市長選挙から(2008.11)から約一年半経ちました。城内診療所もちょうど1年が経過しました。移転ご31年間にわたり風雪に耐えた外装と内装が塗り替えられました。診療所の顔も新しくなりました。

国政は小山先生の居る沖縄の普天間問題で騒然としてきました。短期間で決着される問題ではないようです。
小山先生の「南城つはこクリニック」開業も一年半がたち落ち着いてきたものと思います。HPも拝見しました。ラジオ放送はまだです。
黒岩先生が沖縄で基調講演を行なったと出ていました。遠方までいかれたのですね。ご苦労様でした。

黒岩先生も長野県生まれと聞いていますし、書かれた本も読みました。「南城」のネーミングは南魚沼市立城内病院が引き継がれて重ねあっているようですね。
「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたふもの」の文には何とも複雑な思いが重なりました。

城内診療所だより「にじのかけはし」を読んでいます。厳しい冬の一隅を照らす灯台(病院)を願った小山先生の思いが引き継がれています。
厳しい医師不足の中で、城内に来られて頑張っている先生方を地域の住民が暖かく迎えて、交流が図られるなにか方策はないものかと思うこのごろです。
お元気で活躍を。乱文、失礼を。
Re: どうなる?城内病院 ( No.85 )
日時: 2010/05/10 22:03
名前: こやましんじ

アクセス2300回を記念して

診療所だより

・・・さんが久しぶりに受診した。孫嫁さんが押す車椅子に乗って、耳から鼻に酸素チューブが携帯用ボンベから掛かっていた。
「元気そうだね」
・・・さんは言葉を返さず、にっこり頷いた。処置室で手首の動脈から採血した。
「痛い」と、ふっくらした白い顔をしかめた。真っ赤な血液が注射器に湧き上がった。
「痛いかい?」痛いに決まっているのに、意地悪な質問をした。
「もう痛くない、入ってしまえば」しっかりした答えが返ってきた。
私は針を抜いて、穿刺点を押えた。次の患者さんが待っていたが、看護師に替わらずに、話しかけた。
「何歳くらいのときが一番良かったかなあ?・・・さん」
「うーん?」
“分かりにくかったか”と思って、
「何歳ぐらいの頃に戻りたいかなあ?・・・さん」と、言い換えて聞いてみた。
はっきりと答えが返ってきた。
「70歳!」
返ってきた答えにまたビックリした。若い頃が良いかと思えば、そうでもない。
「えっ、どうして?」
「みんな終わってだっくりした。子どもも大きくなったし、自由に温泉にも行けた。家も空けられるようになった」本当に安堵したように言った。“だっくり”って、荷物を下ろして楽になった感じがした。
「若いころは?」
「親の言うまま結婚して、田んぼや畑や家事で忙しかったよ」
「30歳、40歳は?」
「子育てで忙しかった」
「50、60歳は?」
「孫の世話や家事や田んぼや畑に忙しかった」
「70にして自らの欲するところにしたがいて則を越えず、だね」
・・・さんは答えなかった。
果たして自分は、何歳ぐらいの頃に戻りたいかなあ?何歳くらいのときが一番良かったかなあ?今は答えられないが、いくつになっても良いことがあるものなのだ。

小山信二

追伸:アトムさんへ、ありがとう。5月9日は母の日で、お母さんの話題を書き込みしました。ところで、私のふるさとは長野県というより、今は南魚沼です。あれから1年半経ちました。
Re: どうなる?城内病院 ( No.86 )
日時: 2010/05/22 22:17
名前: こやましんじ

2400回を記念して

診療所だより

八海山からの雪解け水が造った扇状地の中心辺りに城内病院がある。区画整備の済んだ横長の四角い田んぼが緩い壇状になって里山に向って連なり、小さな集落が点々として佇む。
陽の短い初冬の夕方、訪問診療からの帰路に、病院が周囲を皓々として照らすのが見える。それは、在宅療養する患者さんを照らしているようでもある。
・・さんの看取りは、雪の降り積もる夜、電話があって駆けつけた。玄関から声を掛けて・・さんの部屋に行った。
世話をする長男の嫁が説明した。
「夕飯はいつものように食べました。たまたま見舞いに来た弟に、“帰ったかい。こっちにあたりな”なんて、惚けた事を言っていました。亡くなった夫が炭焼きから帰ったと、かん違いしたのでしょう」
既に親戚が集まって来てベッドを囲んでいた。私は・・さんをゆっくり診察した。そして、心臓、呼吸、頚動脈、瞳孔を確認した。
「永眠されたようです。私が最初に診たのは去年の11月でした。指先は紫色でしたが、低い声でゆっくりと “だ、い、じょーぶ”と答えたのを覚えています。往診の度に“あ、り、が、と、う”と感謝を忘れない人でした。死因は心不全からの不整脈でしょう」とまとめ、深々と頭を下げた。
「3日前の誕生日には美味しそうにケーキも食べたのですよ」嫁が涙声で言った。
明かりが灯る病院に寄って死亡診断書を書いた。死亡したところの種別の欄に、病院や診療所、老人ホームなどがある。自宅は6番目にある。病院死亡が8割を超す現状では、1番は病院となるのもやむを得ないが、天寿を全うするものが増えれば、当然、1番目は自宅(ホーム)であるはずである。
私は在宅医療を始めた頃、初めて在宅で患者さんを看取ったとき、息を引き取るまで正座してずっと付き添った。病院勤めでそうしてきたからだ。しかし、在宅医療はそうではない。医師が何かを変えられるわけではない。自然に消えていく命を弄んではならない。

小山信二

追伸:意見やご感想をお聞かせいただけたら幸いです。

Re: どうなる?城内病院 ( No.87 )
日時: 2010/05/23 10:22
名前: 市民の一人

小山先生、南魚沼市の人口が1万人から、1,9万人にふくれまいた。

第二の故郷南魚沼に遊びにきませんか、沖縄の話やら、あれからの

南魚沼を含め酒の力をかりて語り明かしませんか。
Re: どうなる?城内病院 ( No.88 )
日時: 2010/05/30 19:07
名前: こやましんじ

アクセス2500回を記念して

診療所だより

幼少のころ、私は“信ちゃんの頭は大きいね。頭に何が詰まっているの?” と近所の人に聞かれ、“味噌が詰まっている”と答えた、という話だ。
 50余年後、城内病院の院長になった。
田植えが済んだころ、訪問診療のことである。
“Kさん”を訪問した。“Kさん”は部屋の中央のベッドに背をもたれていた。奥さんがベッドサイドに立って、同級生だった“Tさん”が立ち寄った話をした。
「“Tさん”と会えて良かったね」“Kさん”に声を掛けた。“Kさん”の目に涙が溢れた。
次に“Tさん”を訪問した。“Tさん”は居間のベッドの脇に、車椅子に乗って待っていた。
「“Kさん”を訪問してきたよ」と言うと、奥さんが、
「お互いに目に涙をいっぱい浮かべて見詰め合っていた。ぜんぜん話はできなかったのに、“もういっぱいしゃべった?”と聞くと、“うん”と頷いて、最後に“さよなら”とだけ言って帰ってきたぜぇ」と話した。
「“Kさん”は、春になったらリハビリすると約束したよ。“Tさん”もリハビリ、一緒にしようか?」と訊いた。
「うん」とは言うものの、気のない返事だった。
「今度、CTスキャンが入るから頭の中を診てみようか?」
「うん」
「奥さんの頭にはきっと優しい心が詰まっているね?」
「うん」
「“Tさん”の頭には何が詰まっているかな?」
「涙!」と、早口にハッキリ答えた。
「なみだ・・・か?」
“Tさん”の目に涙が溢れていた。奥さんは立ち上がって涙を拭った。
病院に戻る車の中で、看護師が聞いた。
「先生の頭には知識がいっぱい詰まっていますね?」
「いや。Kさん”と“Tさん”、身体が不自由で、言葉が不自由で、きっと辛いのだろうね」
私達は、歩けて、喋れて、食べられる。健康な私達は、二人を思いやって、目に涙が溢れた。

小山信二

追伸:市民の一人さん、はじめまして。あなたに、「語り明かそう!」と誘われると、「いいよ。待っていたよ」と、すぐにも“飛んで行きたい”気持ちです。涙も湧いてきました。ありがとう。いつかその日が来るような気がします。お元気にお過ごしください。
Re: どうなる?城内病院 ( No.89 )
日時: 2010/06/09 23:45
名前: こやましんじ

2600回アクセス(読者)に感謝して

診療所だより

城内病院に赴任して間もない頃、外来の診察室で、
「“・・さん”、具合が悪くて、来られないそうです」と看護師が心配そうに声を掛けた。
「“・・さん”って」
「96歳のおじいちゃんです」
「ADL(注)はどうなっている?」
「食べて、喋って、立てますよ」
「じゃあ、後で、往診しよう」
「ご一緒しますね」と安堵したようだった。
午後、雪が降り積る八海山の麓の大きな家に往診した。
“・・さん”は痰が絡んで、手足の爪は紫色だった。家では回復が難しいと思ったが、
「気管支肺炎です。入院させますか?」と聞いた。
「もう歳だし、家で看たいです」と家族の一人が答えた。
「わかりました」確かに年齢と状態から看取りも選択肢と思った。
「でも、回復できるかもしれません。どうしますか?」と付け加えた。
「先生にお任せします」
私は判断に窮したが、初めての診察だったので、点滴し、在宅酸素と吸引器を手配した。
一週間後、回復の兆しを見た家族は入院させた。
入院後めきめき回復した。
「頑張ったね」と朝の回診で握手した。
「先生の手は大きい。田中先生と同じだ」と目を輝かせた。
「田中先生って?」
「?、角栄さんだよ!」
元総理と知って、私はなんとなくうれしかった。
雪が消え、病院の庭に桜が咲き、そして、退院した。
1ヶ月ほど経った頃、訪問診療した。“・・さん”はベッドに背をもたれて、一人、通りを眺めていた。診察を終え、食事とか、眠れているか、など尋ねた。
「大丈夫、先生のお蔭だ。ありがとう」と骨ばった手を差し出した。
「“・・さん”の手は大きいね」と私は言った。
「先生の手は大きい。田中先生と同じだ」と返ってきた。
路肩に咲く紫陽花を眺めて来し方を懐かしむ“・・さん”の生きる力が、私達に大きな手の思い出を残した。

小山信二

注:ADL(Activities of Daily Living)= 日常生活活動
追伸:城内病院の職員入口に紫陽花が咲く頃ですね。
Re: どうなる?城内病院 ( No.90 )
日時: 2010/06/20 08:49
名前: こやましんじ

2700回の参照に感じて

診療所便り

K夫妻はどちらか一方が悪い場合でも、いつも一緒にやって来た。診察室から名前を呼ぶ。
「Kさん!」
それが合図で、その日も、K夫妻は一緒に診察に入って来た。旦那さんは診察椅子に座り、奥さんは後ろの丸椅子に座った。旦那さんには顔に“あざ”があった。
「どうしたの?その顔?」
「畑道でつまずいて」
「いつ?」
「四、五日前」
血圧を測って、胸を聴診した。
「大丈夫かい?痛まないか?」
「大丈夫だよ。もう痛くもない」
「気を付けてよ。本当に頼むよ」
「患者に頼むような先生は、名残惜しくて逝かれねえ」旦那さんはニコニコしながら言った。
「どこへさ?」
「あっちですよ。あっち!」看護師がわかったように口を挟んだ。
「あっち?」
「思川!」
「思川って?」
「この辺の、焼場があるところですよ」
「まだまだ逝けないよ!Kさん」
「母ちゃんは4つ若い。89の爺ちゃんが逝っても、お願いな」
今度はお返しに私が頼まれる。
「先生、歳はいくつ?」奥さんが訊いた。
「52歳!」
「そう言えばこの辺が白いな」と旦那さんが自分の眉と髪を撫でながら言うと、
「子供と一緒だよ」と奥さんが声をかけた。
「昔は若かったよ」Kさんはニコニコしながら奥さんを振り返った。
「じゃあ、交代しよう」と、今度は奥さんを診察する。
「咳、少なくなったかい?」
「うん。だけど咳止めは、ほしいなあ」
「わかったよ。肺の音は悪くないよ」
「よかった」
「油断しないでやろうね」
「うん」
処方箋を書きながら、二人に声をかけた。
「寒くなるから気をつけようね」
実はK夫妻は追っかけです。城内病院に追っかけてきたのです。追っかけは何もビートルズやヨン様に限ったことではありません、山医者にだって。
“山医者を 名残惜しくて 生きている”もう、6年前の話になりました。

小山信二

追伸:旦那さんの願いは叶えられませんでした、奥さんが先に亡くなってしまいましたので。
Re: どうなる?城内病院 ( No.91 )
日時: 2010/06/28 21:28
名前: こやましんじ

アクセス2800回に

診療所だより

城内病院では毎朝回診して五感を働かせて患者さんの病状の変化を診るのが、僕のやり方だった。“元気に長生き、元気に長生き”と唱え、患者さんの治癒力を最大限に発揮させるお助けマンだ。
ある朝の回診で、
「おはよう」と89歳の・・・さんに声をかけた。・・・さんは入院したときは心不全が悪化し、ほとんど身の回りのことができなかった。僕が同室の患者さんと握手をするのを見て、
「私にも」と言って掛け布団を除け、手を差し出した。それを契機として、僕は・・・さんの主治医のようになった。
一ヶ月余りで・・・さんは息切れも消えて、近々退院することが決まっていた。
「良くなったね。いい顔しているよ。脚だって細くなったじゃないか!元気になったね」と声を掛けた。
「オカメよ。頬が高くて鼻の低い、しわくちゃオカメ」と不機嫌にした。
確かに、全身のむくみが取れて、しわが目立っていたが、
「そんなことないよ」
「先生の 心の温もり 握手かな」と、突然言った。握手した・・・さんの手から、柔らかい感触が伝わってきた。以前から詠み出すタイミングを計っていたようだった。僕は脳天にキッスをされたように感じた。
「俳句、詠むんだ・・」正直驚いた。
「うん」
「いい句だねえ」
「うれしいなあ」
「先生の 心の温もり 握手かな・・・・・元気に長生き 励まし契る」
僕は短句を付けて詠み返した。
「先生、いつまでも、やさしさ忘れないでね」
「わかっているさ」
「また会えるかなあ」
「会えるさ」
「そうね・・」
僕は両手で・・・さんの手を包み、口を横に尖らせてヒョットコの顔をして見せた。・・・さんは目を細めてオカメの顔をして返した。私たちはオカメとヒョットコで一緒に踊りたい気分だった。

小山信二
Re: どうなる?城内病院 ( No.92 )
日時: 2010/07/06 20:04
名前: アトム

小山信二先生へ

今日は、前から聞きたかった、FM二ライのインターネット放送を聞きました。聞いたのは放送最後の方でしたが小山先生のあの声が聞こえてきました。
テンポの速い、明るい対話形式で石原裕次郎の表と裏を裕次郎の歌を入れながら語られていた。特に裏の方は、医者としての視点で、大動脈瘤の手術成功と肝臓病についてであった。美空ひばり肝臓病の話も出ていた。前も一回聞きました。母の日でしたか、沖縄赴任の時父親から励まされたと語られていた。
沖縄での益々のご活躍をお祈り申し上げます。
この市民フォーラム「どうなる?城内病院」のアクセス記念ポイントでの「診療所だより」をなつかしく拝見しています。
かっての城内病院の姿が先生と患者さんとの対話の中から浮かんできます。そして地域医療に全力で取り組んだことが推察できます。
先生が以前追伸で、「城内病院の職員入口に紫陽花が咲く頃ですね」と書かれたそのアジサイが、今咲いています。
城内診療所も今年春に外壁などの化粧直しを行ない、きれいな診療所に生まれ変わりました。そして、アジサイも生き生きと咲いていました。

アジサイは次のURLから見れます。
http://www.mars.jstar.ne.jp/~kiichiro/top/H22-7-2ajisai.html

「エフエム ニライ」
http://www.simulradio.jp/
沖縄をクリックする
日曜日の16:00から30分間の放送です。
Re: どうなる?城内病院 ( No.93 )
日時: 2010/07/06 10:49
名前: こやましんじ

アクセスが2900回を超えて

診療所だより

光が眩しい初夏の午後の、城内病院での思い出である。
“カッ、カッ、カッ”という音が診察室に近づいて来る。
「先生、健康診断の方です」と看護師が伝える。背の高い若い女性が入ってきて、
「ハイヒールの音ですか。いいですね」と感想を漏らす。
「そんなことを言われるの、初めてです」と若い女性は答える。
「病院で今まで聞いた記憶がありません。健康的で新鮮な感じです」
「どうしてですか?」に、以前は玄関でスリッパに履き替えていたが、この春から土足を解禁したこと、中待合のトイレを撤去して広くしたことなどを話す。
「それでしたら、これからは聞けますね」
「どうかなあ?」と、健診を終える。女性は黒のスカートのお尻を振り、軽やかに“カッ、カッ、カッ”と遠ざかって行く。
暫くして、
「先生、着物の女性が来ています」と、看護師は“あるまじきこと”のように言う。
私と同世代の通院中の女性である。
「薄い着物、涼しそうでいいですね。いかにも上等ですね」
「そうですか?」と微笑んで、
「今日は血圧が高くて!」と自動血圧計の結果を出す。
「測ってみましょう」に、右袖を托し上げて腕を載せる。ふっと、良い香りがする。
「血圧、少し高いですね」と聴診すると、また、良い香りがする。
「家での血圧は低いですよ」と血圧手帳を示すので、
「では、もう一ヶ月、今のまま診ましょう」と診療を終える。患者さんが途切れて廊下に出る。着物の女性が黒いベンチに斜めに片尻を掛け、背筋を伸ばして座っている。清楚な帯と白足袋と銀色の草履が見える。
“オジサン医師”を自認する私には、映画“ローマの休日”のように、今でも記憶に残っている。“健康は中身の問題だ”とは言え、外にも現れる。さわやかに、健康的に、生きたいと思う。

小山信二

追伸:職員入り口の彩豊かな紫陽花と改装された城内病院を見ました。アトムさんありがとう。“診療所だより”、南魚沼の方に読んでいただけたら嬉しいです。私の声はインターネットのサイマルラジオから聞けます。お元気にお過ごしください。
Re: どうなる?城内病院 ( No.94 )
日時: 2010/07/09 20:27
名前: こやましんじ

アクセス3003回を記念して

診療所だより

城内病院の周囲の里山に緑が深まる初夏の頃、・・さんを訪問診療した。風通しの良い奥の部屋に白地に花柄のタオルケットを掛けて寝ていた。
「お元気ですか?」
「はい」と丸顔をニコニコさせた。
「暑いですね」と声を掛けた。奥さんが急いで駆けつけ、・・さんの身体を起こした。
「この人は戦争で南方にいたんですよ」
「ガ島にいた」と・・さんが言った。
「ガ島はガダルカナル島らしいです。軍医付の衛生兵で、軍医の手伝いをしたそうです」と奥さんは続けた。
「南方では病気と飢えで死んだ人が多かったそうですね」私は聞いたことのある話をした。
「はい。鉄砲の弾で死んだ人はほとんどいなかったそうです」
「軍医の手伝いって何をするのですか?」
「助かりそうな人から助けるために、軍医から“あそこを握って元気の良いのがいたら、手を上げて知らせるように”と言われたそうです」
「あそこですか?そういうのもトリアージ(注)ですか?」全く、これほど本当のことはありそうもない。
「それから、家(うち)のは“戦地で女の人を抱いた人は死んでしまった。自分は絶対それをしなかった”と言っていました」
「生きる願掛けみたいなものでしたね。“死ぬか死なないか”は、戦争でも戦地でも“女の人を抱くか抱かないか”で決まらないですよ、ね。でも、奥さんには良かったですね」
「ほんとかどうか、わかりませんけど、ね」
「戦争を生き抜き、結婚して、米寿も迎えられた。良かったね、・・さんは」
「もう、だめだよ」と・・さんは嗄れ声で言った。
「当たり前だよ。いやだよ」と、奥さんは笑った。
戦争を南方で生き抜いて戻ることは並大抵のことではなかったろう。生きる時代を選べないのだから、生き抜く意思と知恵をいつの時代も持たないといけない。

小山信二

注: 救急の患者さんを救急度に応じて振り分けること。
Re: どうなる?城内病院 ( No.95 )
日時: 2010/07/09 22:25
名前: 笠原喜一郎より

どうなる城内病院 久しぶりに拝見させていただきました。元気でご活躍のようでうれしく思います。遠く沖縄の地からこうして城内病院のことを心配されていただいていることにありがたく感謝いたします。文章からあふれ出る小山先生の人柄に改めて医師の原点、基本を見る思いです。
南魚沼市議会も昨年10月に改選され新しい陣容でスタートしています。基本を忘れずに与えられた任期を精一杯がんばりたいと思っています。
Re: どうなる?城内病院 ( No.96 )
日時: 2010/07/16 17:59
名前: こやましんじ

3100回に

診療所だより

城内病院に移って間もなくの頃、“Yさんが亡くなった”と風の便りに聞いた。そのとき私は “Yさん”のことを思い出した。
Yさんは丸顔でふっくらして色白で唇が厚く、髪の毛が少し薄かった。Yさんの膝の傷はなかなか治らなかった。破傷風に掛かったために、脚は竹のように細く、膝が竹の節のようになっていて、傷を治す力が弱かったからだ。しかし、声を掛けるといつもニコニコしていた。
Yさんは、私が以前診療所に勤めていたとき、診療所併設のショートステイを利用することがあって、私も朝食をそこで食べていたので、Yさんと一緒になったことがあった。Yさんはスプーンを上手に使ってもくもくと食べていた。声を掛けるといつものようにニコニコした。
ある週末、ショートステイ利用中に、意識不明となり、救急病院に担送された。強い生命力で危機を乗り切って退院した。が、気管に首からスピーチ・カニューレを入れられていた。カニューレ口を指で押さえるとしゃべることはできた。
その後、私は雲洞庵の近くの自宅に訪問診療することになり、気管のカニューレが痰で詰まるので、訪問するたびに交換した。ある時Yさんは、
「こんな歳になっても死にたくない。死ぬのが怖い。もう少し生きたい」と言った。
「わかっているよ」と受け流したが、
「先生お願い!」とYさんはさらに懇願するように言った。その時、
「僕はYさんのために生きている」と、言い放った。
Yさんはそれを聞いて安堵したのか、
「ありがとう」と肯いたのだった。
あれから大分経った。あの言葉は患者さんに向き合ったら、全力を尽くすという、在宅医療の誓いのようなもの、と思っている。あの時に自分に込み上げた熱い想いを懐かしむこの頃である。Yさん、“ありがとう”。

小山信二

追伸:喜一郎さん、メッセージありがとうございました。南魚沼市議会議員として頑張ってください。私は医師として沖縄で頑張っています。お元気に。
Re: どうなる?城内病院 ( No.97 )
日時: 2010/07/27 22:22
名前: こやましんじ

3200回に

診療所だより

 城内病院の患者さんに、訪問診療に来る医師と看護師と一緒にお茶をするのを楽しみにしている方がいた。卓袱台に身体を畳に擦って移動して、
「行儀が悪くてすいません。先生用」と茶托に茶碗を載せて前に押し出す。そして、
「自分の茶碗は割られちゃいました。洗ってもらうときに」と。
新しい茶碗を見ると、“仲良き事は美しき哉”と見慣れた字体で書かれていた。
「志賀直哉でしたっけ?」と看護師が言う。
「いや」しかし、思い出せない。
「白樺派ですよね」また、言う。
茶碗を見せてもらうが、赤い判子があるが、読めない。
「あいうえお、かきくけこ、さし・・・」といつものように頭の中を検索するが出てこない。
病院に帰ると、認知症の薬の院内勉強会があった。若いMR(注)が、
「物忘れと認知症の違いは、例えば、夕飯に、魚を食べませんでしたか?と訊かれて、秋刀魚を思い出したりする。これは物忘れです。認知症の方は思い出せません」と説明した。
 夜、家に帰って、昼間の“仲良き事は美しき哉”続きで、
「あいうえお、かきく・・・まみむ、うん・・む、・・・武者小路実篤」
思い出した。早速、インターネットを検索して確かめた。“正解!”念のため“仲良き事は美しき哉”と入れてみた。一瞬に“武者小路実篤”と出てくるではないか。世は変わった。記憶とはいったい何なんだろう。誰もが知っていることを頭に入れておくことではなさそうだ。
翌朝、診察室にきた看護師に、
「思い出したよ。武者小路実篤だ」
「時間が掛かりましたね」
「うーん?インターネットじゃないよ。思い出せれば、もの忘れだ!」
「当たり前です。先生が認知症だったら困ります!」
穏やかに歳を取って、私たちが訪問診療に来るのを楽しみに待って、お茶を入れてくれる患者さんはなんと素晴らしいことか。

小山信二

MR(注):医薬情報担当者Medical Representative、とは、医薬品の適正な使用に資する為に、医薬関係者を訪問すること等により適正使用情報を提供し、収集することを主な業務として行う者のことを指す。
Re: どうなる?城内病院 ( No.98 )
日時: 2010/08/07 22:11
名前: こやましんじ

参照3300回に

診療所だより

 夏の終わりごろ、Mさんを一年ぶりに訪問した。Mさんは、一年間、城内病院と県立病院に入院し、胃瘻を造った。それでも、頑張って在宅に戻って療養していた。
雪除けの屋根のついたアプローチの表札を懐かしく見上げた。Mさんは、まだ、いなかった。80歳になる奥さんと思い出話をしていると、暫くして、デイサービスから送られてきた。
「ありがとう」とMさんの声が聞こえた。素敵なスエードのトックリを着ていた。
「やはり、家にいると見違えるほど生き生きしているね」
「家はいいよ!」
「退院の挨拶のこと聞いたよ」
「そうかい?」
「奥さんを制止して、“わしがやるからいい”と 。“長い間大変お世話になりました”って。みんな挨拶するとは思わなかったから、あっけに取られていたってね」
「そうかい?」
「そして、平然とお辞儀をしたんだってね」Mさんは頷いた。
「テレビを見ていて“寿司が食べたい”と言ったよ」と奥さんが言った。
 Mさんの家を後にして、帰りの車で看護師が言った。
「Mさんは、絶対噛まなかったんですよ」
「何を?」
「私たちの指を!」
「いつ?」
「口腔ケアのとき」
「誰かに噛まれたことあるの?」
「ありますよ!」
「何でバイトブロック(注)使わないの?」
「私たちは患者さんを信じるんです」
 信頼とは患者から看護師への一方的なものではないのだろう。看護師も患者さんを信じるのだ。
「どの指を噛まれたの?」右の人差し指を立てた。
「力を入れたときに思い出すんですよ、あの時あの患者さんに噛まれたんだって。力が入らないので。でも、Mさんは、絶対に、噛まなかったんです」
「Mさんは噛まないさ。絶対に!」
 私も患者さんやその家族との信頼関係は相互的なものであると思っている。しかも医師や看護師が先に信頼しなければならないものだ、と。

小山信二

バイトブロック(注):咬み合った歯の隙間からねじ込んで、ねじ式に口を開けて、咬まないようにするものるもの。
Re: どうなる?城内病院 ( No.99 )
日時: 2010/08/28 00:36
名前: こやま

アクセス3400回に

診療所だより

秋の夕暮れ、周囲の山々が白い雪の薄着を被る頃、私は三国川の急流が削った五十沢の奥から、宮の集落を過ぎて工業団地を抜け、真直ぐな農道を慎重に車を走らせた。里にも初雪が降り出していた。
「Mさん、待った?」
「待った、待った!」
炬燵に当たって待ち焦がれ、待ちくたびれている。
「ごめんね。MさんのMは、待つのMだね」
「おらあ、待ったぜ。来んと思った!」
Mさんは、私が初めて訪問したとき、“先生に死水を取ってもらうよ。頼むの、3人目だよ。長生きして嫌だよ”と困った顔をしたことがあった。また、数年前に末娘が60歳で亡くなった時、“わら背負って頬被りして、田んぼを行く人がいる”と言って聞かず、心配させたこともあった。
「誕生日が来るね」
「また年取らされる。このまんま100なんて嫌だよ」
「あと3年あるさ。今日はインフルエンザの予防注射をするよ」
左の袖を捲くって腕の背を出し、アルコール綿でゆっくり拭く。
「注射、昔はおっかなくてさんねえかった。医者どんにされると思って、畑に逃げて、蜂に刺されて、ひどい目にあった。医者どんは嫌だった。今と大違いだ」
「終わったよ」
「痛くも痒くもない」
「いつ、注射逃げて、蜂に刺されたの?」
「50年前かな」
「えっ、今の僕ぐらいじゃないか!」
「50はまだ子どもであった」
Mさんは“50歳はまだ子ども”と平然と言った。みんな、大笑いした。“50歳が子ども”なんて、皆聞いたことがなかった。97歳からみると、そうかもしれない。
庭の松の緑の枝に初雪が降りかかり、白く積もり出していた。
「ご苦労だの。雪は嫌いだ」と気遣った。
「MさんのMは、松のMだね」
「おらあ、松は好きだよ」と目を細めた。もうすぐ、本格的な冬がやってくる。

小山信二

追伸:残暑お見舞い申し上げます。最近元気がないですね、南魚沼市民フォーラム。あと1回ですね。次回をお楽しみに。でもそれで”さよなら”ですね。
Re: どうなる?城内病院 ( No.100 )
日時: 2010/10/20 21:09
名前: こやましんじ

診療所だより

ある11月の下旬に畦地のNさんを訪問した。
地面から2階の軒に古い木柱が数本立て掛けてあった。雪囲いの準備のようだった。
玄関を上がると“こっちです”と居間から声がした。私たちが入ると、仏壇を背にした“お母さん”が立ち上がって、電灯を点けた。炬燵の奥に“お父さん”がいた。Nさんの後の畳が半畳分外されていた。
「どうして畳を外してあるんですか?」
「下に芋を寝かせている!」“お父さん”が答えた。
「芋を寝かせる?見てもいいですか?」立ち上がって、観音開きに2枚の小さな穴が開いた板を持ち上げた。下は大きな長方形の茶箱のようで、籾殻に包まれてたくさんの芋があるようだった。表面が一つ一つ盛り上がっていた。
「芋が息をして、熱くなるから、畳を外しておかないと、芋が腐ってしまう。芋が眠ってから、畳を戻すのですよ」
芋を居間の畳の下に眠らせる、とは、雪国の越冬の知恵に感心した。診察を終えて話していると、“お母さん”が蕪の漬物、りんご、大根と椎茸の煮物などを炬燵盤に並べた。
「大きな炬燵ですね」
「96歳から高校生まで、4世代、8人暮らしです。“ひ孫”が“じい”の髪を切ってやりますよ」と、“お父さん”が言った。
「皆ここで揃って食べるのですね?」
「夕飯や団欒はここですね」“お母さん”が言った。
「変った障子ですね」障子の下は半分ガラスで、下の紙障子が上げてあった。
「雪見障子です」庭に往診車が見えた。
「冬は外に積った雪を見るのですね」
「いや、積った雪で外が見えないので、紙障子を降ろして置くのです」
「じゃあ、雪不見障子ですか」
 訪問診療を終えて家の外に出た。
「先生、往診カレンダー、張り替えていますよ」と看護師が言った。
振り向くと、縁側のガラス戸から雪見障子の中の様子が伺えた。雪国の豊かな暮らしを垣間見た思いがした。

小山信二

追伸:皆さん、お元気にお過ごしください。

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